質問1340:どこまでが心を刺激する快となるのか?

回答ありがとうございます。

集中力のトレーニングBOOK読ませて頂きたいと思います。

食禅や物理的な距離を取る。実践します。

刺激中毒について、これも集中力のトレーニングBOOKを読みたいと思います。快も不快もどちらも心にとっては刺激なのですね。まだまだ気づき直すの繰り返しですが、このままトレーニングを積みたいと思います。


大学について、学業が好きならば行くというご回答を頂きましたが、それについて質問があります。

大学生活を送るために行くというのはアリでしょうか。
例えば現在高校に通っていますが、学業のためとういうよりかは、友人やクラスメイトとの関わり合いやテニスのためにという側面が強いです。
つまり高校に通っているのは学業や友人、人間関係、テニスまた多くの経験などを含めた高校生活を送るためです。
その延長線上で大学に行くのは良いと思いますか?

この質問の真意は、どこまでが自分にとって(心にとって)刺激となるのかということです。

一切皆苦ですから、人生の目的は生きることで、さらに言えばなるべく苦しまず生きること。そして快も不快も心にとっては刺激で、それは苦の要因になる。ならば人生から出来るだけ快も不快も取り除くということになると思います。

そこで不快というのは暴飲暴食だったり、痛みだったり、ネガティブ思考であったり、恋や性生活であったりする。そしてそれらは自分の中で避けやすい?取り除きやすい?気がします。

しかし快というのはどこまでが心を刺激するほどの快となるのか。という点と、それらをすることで幸せを感じるという点で、快を避けるのはかなり難易度高い気がします。

1つ目の点についてどこまでが心を刺激する快となるのかを聞きたいです。

いくつかの種類の快があると思いますが、例えばテレビを見る。音楽を聴く。など何もしないを回避するための快は私は避けやすいです。

食事関連の快で言えば、たまに食べるアイスが美味しかったり、きちんと味わって食べるご飯は本当に美味しいです。

テニスで言えば、エースを決めるという快や単純に集中し、無心に近い状態でテニスが出来た、ピークパフォーマンスを少しでも体感した、という快。

人間関係で言えば、友達と馬鹿みたいな話をしてるのが楽しかったり、色んな人と触れ合えるのが嬉しかったり、という快。

上記であげた快は心を刺激する、苦を生む快なのでしょうか。ベストなのは本当に何もしないでぼーっと生きることでしょうか。何か私の勘違いがあるような気もします。それも含めて教えて頂ければと思います。

快も刺激が強すぎるものは苦の要因になると想像するのは容易なのですが…

快、不快や苦についてもう少し詳しく聞けたら嬉しいです。

お返事お待ちしております。


回答
原理原則をお伝えしますね。
私たちの心と体を通じて認識できる刺激は「苦だけ」であり、
快と感じるのは、すべて「錯覚」です。

錯覚というのは、
脳による情報の書き換え作業、
もっと言えば「だまし」と言い換えられます。

なぜ「だまし」があるのかというと、
仰せの通り「苦しみを求める」からです。

その「だまし」を見破って、
苦悩から自由になる手習いが、
先にお送りしました『集中力のトレーニングBOOK』です。

例えば、たまに食べるアイスを美味しいと感じた。
それは、暑いとか、空腹とか、低血糖とかの「苦」が前提としてあるから、
冷たいアイスを食べた時に「美味しい」と錯覚したのです。

それが証拠に、
寒くて、満腹で、高血糖時にアイスを食べてご覧らなさい。
同じアイスでも「苦」でしょう?

真冬の凍える雪道でガリガリ君を頬張ったら、
身体が拒絶するはずです(笑)
(前回、俎上に載せたマゾヒストだと、
それすら快に、書き換えてしまうかもしれませんけれども……)。

さらにいえば、「美味しい」という観念を作った時点で、
今を生きていないから、充実感が損なわれる点でも「苦」です。

「美味しい」と感じた直後にも、無常ですから、
次々と新たな認識が生じています。

しかし「美味しい」と感じた「過去」に囚われるため、
直後に生じている認識が、スッポリ抜け落ちます。

それは、1秒のうち、わずか0.5秒分だけかもしれません。
しかしそんなふうにして認識し損ねていますと、
10秒のうちの5秒、
1時間のうちの30分、
1年のうちの半年分が抜け落ちるから、
「なんか、虚しいなぁ」という「苦」に苛まれるのです。

ですからご質問にお応えしますと
「どこまでが心を刺激する快」かといえば、快はどこにもありません。
何もペシミズムな陶酔でもなんでもなくって、
「一切皆苦」とは、そういうただの(だけど最重要な)事実です。


おっしゃる理由であれば、
大学へは、行っても行かなくても、どちらでもよいと思います。

というのも、友人と話をしたり、
色んな人と触れ合ったり、
テニスを楽しんだりするのであれば、
大学でなくてもできるからです。

大学へ通う理由は、学業を深めるのがベースですし、
特に国公立大学であれば、学業を志す学生に対し、
国が費用を負担して賄うのがコンセプトですから、
学業がメインでなければ、他の学びたい学生に譲るのが筋でしょう。

アスリート入試であったとしても、
その競技における研究を深めて国へ還元するのが筋です。

何も高卒や中卒だと、
友人と話せなかったり、
色んな人と触れ合えなかったり、
テニスを楽しめなかったりするというわけではありません。

そもそも迷っている時点で、
大学へ行こうが行くまいが、大差ありません。
大差があるなら、当然迷いませんからね。

乱暴に聞こえるかもしれませんけれども、
サイコロを振った「出た目」で、どちらか決めればいいんですよ。

専門用語ではこれを「出鱈目(デタラメ)」と言います。
どちらになっても、大差ない。
執着するに値しない智慧が「出鱈目」です。

また迷っている時点で、
「無智」のエネルギーが増大しますから、
心に相当な負荷がかかっています。

集中力を欠く性格づくりに加担。
その迷いをスパッと断ち切る智慧が、「出鱈目」です。

もちろん今のご自身にとって、
友人と話したり、色んな人と触れ合ったり、
テニスを楽しんだりするにあたって、
大学がそれらを実現しやすそうであれば、
通われても構わないと思います。


本当に何もせずボーッと生きられれば、
精神衛生的にも、経済状況的にも、そして地球環境的にも、
(本当は)望ましいでしょうけれども、
やってみればわかると思いますが、それほど簡単ではありません。

台風19号が残した深い爪痕は、
経済活動を最優先してきた人類に対する自然からのサインではないか、
という仮説は、前回お伝えした通りです。

ピークパフォーマンスを快だと感じるかもしれませんが、
無常ですから、その快は色褪せていき、
今度は普通に戻っただけでノーマルパフォーマンスに「落ちた」と錯覚するところに、
「苦の本質」があります。

日常でも、何かイライラする時というのは、
その少し前に、ウキウキすることがあった状態が色褪せる過程。
逆にウキウキする時というのは、
その少し前に、イライラすることがあった状態が色褪せる過程。

わけもなく、イライラしたり、ウキウキしたりするのではありません。
色褪せるから、イライラしたり、ウキウキしたりするわけなのです。

以前、快を感じたかったら、
劣悪な環境に身を置いてごらんなさいと、ご提案申し上げました。

日常に戻ってくるだけで、嬉しくなります。
しかしその嬉しさも無常ですから、
色褪せる過程で虚しさを味わう「一切皆苦」の理法からは、
やっぱり、どうしたって逃れられません。

快適に暮らすには、不快が必要。
だったら何もない=「空(くう)」、
快でもなく、不快でもない=「中道(ちゅうどう)」を行く。

でも大抵の人は、
「そんなことはない! 世の中は喜びに満ちている!」って「期待」するから、
その実現のために何か「する」結果、やっぱり苦しんでいます。

とはいえ大抵の人が、
「何もしないなんてツマラナイ」っていうでしょう。
それは再三お伝えしてきた通り「刺激中毒」だからです。

日常生活というのは、ありきたりで、「今」は大抵「平凡」です。
だから、刺激を求めては苦しむ羽目に陥る、
今までご説明してきたような無限ループをリピートします。

原理原則的の話に立ち返りますと、
より大きな快を得るためには、より大きな苦が必要ですから、
快を求めれば求めるほど、自分では気づかないうちに、
苦を引き寄せてしまうのです。

よりによってDVのパートナーから離れられないのは、
前提として「苦」があるからという皮肉による(ガーン!)。

『集中力のトレーニングBOOK』では、
無限ループを脱出する方法についても紹介されています。
それは当然、テニスの苦しみから抜け出すための手習いでもある。

快と不快の2極しかないと思い込んでいた無明を照らす、
一筋の第三の道。

これも、頭脳優位でいくら考えても、頭で分かるものではありません。
身体優位の「体育」にて身に付く、乾いた言い方をすれば「技術」です。

いかに、自分が「刺激中毒」かが、身につまされます。
その「身につまされる」、というのが、体育を行う上での「肝」です。

 

即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO トップページ
http://www.tenniszero.jp/

▲このページのトップに戻る