質問1342:人と人が真の意味で理解し合うのは難しい?

回答ありがとうございます。

苦を和らげる苦は必要ですが、確かに度が過ぎてしまいがちだなと感じます。
まだまだ足るを知るを実践出来ておらず、分かっていても刺激を求めてしまいがちになってしまうので、トレーニングを積んでいきたいと思います。

そしてまだまだ観念づくりもやめられないので、気づき修正を繰り返していきます。

心の底から諸行無常を理解し、一期一会を感じられるようになるにはまだ少しかかりそうです。

ほとんど人々が見ている"現実"は主観で、各々の観念の元に形作られているのですよね。そう考えると、人と人が真の意味で理解し合うのは難しいのでしょうか。適当な浅い関係であるから続けられるものの、真の意味での人間関係は難しいと思います。

質問があります。
粗食に関して、以前ご回答頂いた時から、時間通りに食べないということを実践してますが、
どのようなものを食べるかについては不明瞭なので、具体的にどのように身体の声に基づいて選択しているのかお聞きしたいです。
スーパーによれば相変わらずお菓子にては伸びてしまうし、(吟味して美味しく食べてますが)
お腹はすいてないが、満腹では無いから食べ続けると言うふうになります。

またこのような相談をする所からも分かりますが、まだまだ結局結果を気にしてしまいます。

なるべく苦を感じない人生にしたいから。善い人間関係で穏やかに暮らしたいから。今を生きたいから。健康になりたいから。

全て今を生きた結果、結果的に得る結果なのに、どこかで結果を気にしてしまいます。結局欲望です。

何も気にせず、考えず動物のように過ごせたらいいのですが、まだまだトレーニングや何かが足りないのでしょうか。

ご回答お待ちしております。


回答

「人と人が真の意味で理解し合うのは難しい」というのは、
まさに仰せの通りです。

「そんなはずはない!」
「学生時代を共に過ごした部活の楽しかった思い出は、
仲間たちと共有している!」などと、
言い張る人も中にはいるかもしれません。

しかし、本当でしょうか?
「楽しかった」といっても、例えばレギュラーと補欠とマネージャーとでは、
楽しかった印象や内容、その度合いは異なるでしょう。

レギュラー同士だから共有できているという訳でもなく、
各々が、「あのミスは悔やまれる」とか、
「練習後のコカ・コーラが美味かった」とか、
「失恋の真っ只中だった」とか、
各自に様々な心象があるにも関わらず、
それを「楽しかった」という軽い言葉で一括りにするから、
表面上、理解し合えていると錯覚するだけです。

同じ食べ物を食べて「美味しい」といっても、
今までに経験してきた味覚の記憶を全て照合した心象が生じるわけで、
真の意味で「美味しい」を理解し合えるはずがありません。

仰せの通り、「適当な浅い関係であるから続けられる」のであって、
深めればより理解し合える、と考えるのは、よくある誤解です。

実は深めれば深めるほど
お互いが全く分かり合えない関係であると、分かります。

換言すれば「いいね」の軽い言葉だから、つながるのであり、
どこが、どんなふうに、具体的にどれくらい「いい?」のかと、
理解を深めようとすればするほど、実は思いは全く共有されなくなります。

それが証拠に「いいね」してくれた人に、
どこが、どんなふうに、具体的にどれくらい「いい?」のかと、
尋ねてごらんなさい。
「しつこい」と、ウザがられるだけです(笑)。

ですからSNSは、確かにつながっています。
それは、言葉が軽いせいで、お互いが理解できていると思い込めるから。

ここに、人間関係を良質に育むための基本があって、
私もよくよく自戒しなければならないのですけれども、
だからこそ相手に、「分かってもらおうとしない」。

「オレの正しさが、どうして分からないのか!?」
「こんなに愛しているのに、どうして分かってくれないの?」

絶対に分かり合えないのに、
分かってもらおうとするために、
人間関係がザラつくのです。

俺の正義も、
私の思想も、
君のポリシーも、
あなたの主義主張も、
世の中の誰とも、分かり合えません。

それを分かり合える、
分かってもらえると錯覚(依存)するから、
「争い」が絶えないのです。

互いに、ぶつけ合います。
妻が夫に、「どうして私の気持ちが分からないの?」
夫が妻に、「どうして俺の苦労が分からないんだ?」
そりゃ、分かりませんて……。

ですから、分かり合えない事実を受け入れる、
もっと言えば、分かってもらおうとしない「自立」によってこそ、
お互いを尊重し合える良質な人間関係が育つのです。


以前にもお伝えしたかもしれませんけれども、
「何を食べるか」ではなく、「どう食べるか」です。
肝心なのは。

「何を食べるか」は、「何でも」構いません。
あるものを、ありがたく美味しくいただけばいいのです。
清らかな心で食べれば、少々の毒を食べてもあたりません。

逆に一番よくないのが、「健康志向系思考」による選別です。
「これは身体にいい!」という欲と、
「これは身体によくない!」という怒り。

このような健康志向系思考で選別していると、
徐々に不健康になります。
サラダを食べても太ります。

先の「粗食」とは矛盾するようですが、
身体の声に従えば「何を」「どれだけ」食べても、構いません。
健康志向系思考で選別などせず、美味しくいただけば。

逆に「食べ過ぎないようにしよう」などと頭脳優位で制限すると、
身体の声が聞こえなくなって適正量が「体感」できなくなるから、
ややもすれば余計に食べ過ぎるし、「粗食」であっても健康を害し、太ります。
「カロリー計算」などもってのほかです。

「身体が求めているものを美味しく感じるようにできている」と、
お伝えしましたね。
「マズイ」と感じるものを「健康のために」と無理して食べると、
それは身体が求めていないから、少量でもあたりかねません。

ありがたく美味しくいただいていれば、
何をどれだけ食べても、健康的でいられるし、太りもしないことだけは保証します。
原理原則的に粗食は苦を緩和すると申しましたが、
「マックのポテトはご馳走」と明かしました通り、
私自身の食生活はというと、何でもよく食べています。

ちなみにマックのポテトにつきまして、
私のパートナーは「カリッ」としたところが好みらしいのですが、
私は否、「ヘナッ」とした油っぽいところが好みであり、
う、うーん「分かり合えない」歯がゆさを覚えます(苦笑)。

何を食べても、構わない。
ありがたく美味しくいただけば。
どうすれば、ありがたく美味しくいただけるでしょうか?

基本はお伝えした通り、
「1日3食」などといって、
お腹も空いていないのに貪らないこと。
貪っていると、ありがたさ、美味しさの不感症になります。

それともうひとつ。
これも「物理的な距離を取る」のに似ているかもしれませんけれども、
食前・食後に「手を合わせる」。
食事・食物の来歴に思いを馳せて「いただきます」「ごちそうさま」と。

頭脳優位で「ありがたい」と思うだけではなく、
身体優位で「手を合わせる」と、
ありがたさが文字通り、「身にしみる」のです。

1回やっただけでは、身に付きません。
これも何度もお伝えしている、
何度も繰り返して身に付く「体育」です。


結果を気にするというのは、
前にもお伝えしたかもしれませんが、
「生存欲求」が強いからです。

生存欲求が強いと、「認めてもらいたい」思いも強くなるから、
依存的になって逆に「認めてもらえない」。
逆は、言わずもがなで、自然と「認められる」「認め合える」ようになる。
ここに、人間関係を良質に育むための基本があるというのは、先述した通りです。

生存欲求を薄めるとどうなるか?
生きにくくなるでしょうか?
死にたくなるでしょうか?

いえいえ、逆に生きやすくなりますよ。
結果を気にしなくなるからそのぶん集中力も向上し、
テニスのパフォーマンスもすこぶるアップします。
認められるし、認め合えます。
死にたくなど、なろうはずがありません。

死にたくなるのは、意に反して生存欲求が「強すぎる」からです。
強すぎて気重になるからヘマをやらかし、余計に死にたくなる悪循環。
食べ過ぎるのも、根幹には生きようとする生存欲求の強さが起因しています。
食と生とは蜜月関係だからです。

「いつでも死ねる」気概でいれば、
別に「進んで死のう」などとは、つゆも思いません。
食べ過ぎることもない。

その具体的な「生存欲求の薄め方」につきましては、
『集中力のトレーニングBOOK』を何度もさらってみてください。

 

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