質問1354:大切なのは客観的事実ではなく、自分がどう感じるかという主観では無いか?

回答ありがとうございます。

全く咀嚼出来ておらず、すみません。この原理原則を理解し、実践しきるにはまだ苦しみが足りないのでしょうか。自分は現在の苦しみは感じることは出来ますが、釈迦のように若い歳で生き続ける限りずっと苦が続くと思えません。

空腹に関して最近は1度も腹が鳴るのを聞いたことがありません。欲求が勝り食べてしまいます。
小欲知足ですが、今の瞬間に集中することによって、満足することが出来るのだと思うのですが、難しいですね。引き続き意識したいと思います。

また吉田さんが仰ることについてその通りだと思います。
原理原則と客観的事実ということについて吉田さんが仰ることは正しいのだと思います。
1つ思ったのですが、客観的事実と主観的事実は異なり、大切なのは主観的事実なのではないでしょうか。
人生の目的はなにか。なるべく苦しまず生きることとおっしゃいました。
輪廻転生というものがあるかどうかは分かりませんが、現段階で確かめる術はありません。そこで人生の範囲を自分という人間が死ぬまでと仮定するとしたら、大切なのは客観的事実ではなく、自分がどう感じるかという主観では無いのでしょうか。

説明が下手で申し訳ないですが、ここで言いたいことは釈迦が言うように輪廻転生があったとしたら客観的事実が大切なのかもしれないが、それが確認できない以上それについて考慮した人生を送るべきではないのでは無いかということです。

客観的事実として快はないのかもしれませんが、
人間に自己がある以上、その人間にとっての現実はその人の主観であり、認知なのではないでしょうか。

またなるべく苦しまず生きることというのは期待にはならないのかということについて聞きたいです。
例えそれが期待になるとしても人生の目的は変わりません。そしてその人がどう思えるかが大事であって真理であるかどうかは重要でないと思うのです。例えばキリスト教であろうと、イスラム教であろうとその人が信じきっていて、主観的な苦しみが少ない人生であればいいのだと思いますがどう思われますか。

少ない苦しみで生涯を終えた人は、例外なく吉田さんの仰る原理原則や客観的事実を理解し、その通りに生きたのでしょうか。

また一切皆苦は正しいと思うのですが、例えそれが客観的事実としての苦しみだとしても、当人が苦しみとして認知しなければそれは苦しみではないのでしょうか。例えば自分で言うならば、アトピーはもちろん痒い時は苦しいし、痛むときも苦しいですが、楽しいこともあるし、充実してると思っています。生きること自体苦では現状ないと思ってるのですが…

何度もご回答頂きありがとうございます。多くのことを学ばせて頂いてます。
押し付けや、強制、命令ではありません。了解致しました。

もうひとつ質問があります。
例えば一切皆苦ということをあげるならば、一切皆苦という言葉を知っている人はほとんどいないと思います。ほかにも吉田さんから教えて頂いた数々の原理原則や客観的事実を知らない人は沢山いると思います。
今まで亡くなったたくさんの人たちや今生きている人でこの原理原則や客観的事実を知らない人は苦しみの多い人生を生きているのでしょうか。

今回の返信、上手く説明出来ず、申し訳ありません。また吉田さんの仰ることに異を唱えてるのではなく、吉田さんのご意見を頂戴したいのです。これからもご教授頂けたら大変嬉しく助かります。

集中についてこれからもトレーニング重ねたいと思おます。

お返事お待ちしております。


回答
言葉の定義をハッキリさせなければならないでしょうね。
主観というのは、自分の感じ方なので、事実ではありません。
ですから「主観的事実」というのは認められません。

「寒い」という事実はありません。
東京の冬は冷え込むといっても、エスキモーの人にとっては何のその。
http://www.tenniszero.jp/article/15417541.html

「おいしい」も「キレイ」も「汚い」も、
「客観的事実」ではなく、「主観的な感じ方」です。

人間の死体が並んでいると気味悪いかもしれませんが、
同じ生命なのにサンマが並んでいるとヨダレが出るのです。

その死体をどう感じるかは、
その人、個人の勝手な感じ方に過ぎず、
「客観的事実」ではないでしょう?

しかし、気味悪く感じられたのは「事実」なのだから、
それを「主観的事実」とおっしゃるわけですね?

同様に、快と感じられたのは「事実」なのだから、
それを「主観的事実」とおっしゃるわけですね?

そしてそれこそが、
生きている自分にとって重要だと。

「主観的事実」が重要なのだから、
自分が快を感じられれば、
他人に迷惑をかけない限り、
「それでいいではないか?」というお立場でしょうか?

しかし一切皆苦の原理原則を踏まえると、
快と感じられるのは錯覚ですから、
錯覚している限り上手くいくものではありません。

「麻薬で快を感じるからいいんだ!」といっても、
どう考えても苦の方が大きいでしょう?
しかも闇のルートや反社勢力を暗躍させる仕組みづくりに加担します。

「麻薬の例は極端すぎる。エアコンで気持ち良くなるくらいいいだろう!」
そうおっしゃるかもしれません。
しかしそれもCO2を排出するなど環境に負荷をかけています。

「たまにグルメを食べて喜ぶくらいいいじゃないか!」というかもしれません。
そこでは、他の生命を犠牲にしていないでしょうか?

「他人に迷惑をかけなければ」とは言いながら、多くの快は迷惑です。
とはいえ、私たちは食べないわけにはいきません。
ですから、「少欲知足」で満足するのです。

ところでくだんの女優さんは、本当に気の毒です。
こうなりやすいメカニズムについては、こちらでご説明している通り。
http://www.tenniszero.jp/article/15941846.html

だからといって、一般人の私たちが手を染めない保証にはなりません。
ですから、よくよく気を付けておかなければならないのです。

「自分は絶対に麻薬をやらない!」という人ほど、
条件や環境が整ったら、簡単に手を染めるのです。

「自分は条件や環境しだいでは、麻薬を使ってしまうかもしれない」と、
よくよく用心しなければならないのです。

「振り込め詐欺には引っ掛からない!」という人ほど、引っ掛かります。
「超能力なんて絶対にない!」と言い切る人ほど、
それっぽいイリュージョン(?)を見せられると、
一気にひるがえって心酔・妄信してしまう恐れがある。
http://www.tenniszero.jp/article/15993566.html

そういうわけですから、
「自分が快を感じればそれでいいんだ!」という人ほど、
よくよく注意しなければ、快の中毒に溺れてしまうのです。
それが「真理」です。

「その人がどう思えるかが大事であって真理であるかどうかは重要でない」という言い分は、
まったく成り立ちません。

「本人が苦しみとして認知しなければ」というのが、問題なのです。
大問題です。
そういう人ほど錯覚していますから、
「ほかの生命や環境に負荷をかけていない!」などと言い張るのです。

輪廻があろうとなかろうと、
「客観的事実」に基づいて生きなければ、不幸になるでしょうね。

「輪廻があるのなら、生まれ変わりが良くなるように生命を慈しむけど、
輪廻がないのなら住環境の快を求めて、
ハエや蚊やゴキブリも殺していい」というお立場でしょうか?

それは「法則違反」ですよ。
生命を殺すその瞬間に、報いを受けるというのはお伝えした通りです。
http://www.tenniszero.jp/article/16195646.html

殺す時というのは凄まじい「怒り」のストレスが活性化しているから、
生きづらさの原因になる。

輪廻があろうとなかろうと、
「客観的事実(殺しや盗みや嘘は苦)」に基づいて生きるのがオススメです。

ですから「悪いことをしてはいけない」と、
押し付けや、強制、命令するわけではないと、申しました。
悪いことをするとどうなるかという「客観的事実」を、
お伝えしているだけです。


「少ない苦しみで生涯を終えた人」は、
原理原則を理解していなかったとしても、
結果的にそのような生き方になっていたのではないでしょうか。

例えばお金が少なくて、
つつましく生きるしかなかった人は、
物質的には貧しかったとしても、
心は豊かだったと想像されます。

私たち一般人が麻薬に手を染めないでいられるのも、
そんなお金がないし、
そこまで快楽を肥大させる刺激もないからと言えます。

条件や環境によっては、
私だってどうなるか分からないから、
よくよく気を付けなければならないのです。

くだんの女優さんも「まさか自分はやらない!」と、
思っていたに違いありません。
本当にお気の毒です。

逆に昔の王侯貴族は、精神的に苦しんだ人が多かった。
それこそ例に出していらっしゃる釈迦国の王子であった「釈迦」が出家したのは、
衣食住ほかの快楽が満たされ過ぎて、
精神的にさんざん苦しんだ背景があったのでした。


「なるべく苦しまずに生きたい」というのは、
過剰になると期待になるでしょうね。
ですから「私事を申せば」、という程度に留めています。
本来的には人生に目的はありません。

「なるべく苦しまずに生きたい」思いが強くなりすぎると、
苦しい時に「嫌だ!」という思いも余計に強くなりかねません。
ですから「無自覚的な期待に注意する」ようにします。
http://www.tenniszero.jp/article/16160026.html

嫌がるのは「自業自得」なのですけれども、
そんな時こそ心の反応パターンを組み替えるチャンスという話を最後にしますね。
「客観的事実」に即せば、次から嫌がらずに済むようになります。

例えばですがご自身にとって「嫌な人」がいるとします。
しかしそれは、「客観的事実」ではありません。
嫌な人に、もともと「嫌」という属性が付いているわけではありません。

それが証拠に、その人に飼われている犬にとっては、
エサはくれるし、散歩には連れていってくれるしで、
「いい人」かもしれないのです。
つまり、「嫌」(と主観的に感じる)人が、ご自身にとっているというまでの話。

その相手を「嫌!」と感じるのは、
過去に同じような不快に陥った反応パターンを、
培ってきたからにほかなりません。

ヤンキーを「嫌!」と感じる人もいれば、
ヤンキーは「かっこいい!」と感じる人もいて、
絶対的な「嫌!」とか「かっこいい!」属性が、
ヤンキーについているわけでは勿論ないのです。

ところが「嫌!」と感じているのは事実だから、
それこそが「主観的事実」とおっしゃるわけですね?

どうして自分は嫌と(主観的事実に基づき)感じるのかというと、
外側の対象によるのにではなく、
自分の内側から生じる心の反応パターンによるのです。

相手に嫌な属性が、「客観的事実」として備わっていない以上、
自分の心の反応パターンが組み換わってしまいさえすれば、
金輪際、特定の嫌な人に対して苦しむ反応パターンを手離すことができます。

そういう嫌な人がいた場合、
普通は「いなくなってほしい」とか、
あるいは「やっつけたい」とか、「変わってほしい」とか、
とにかく外側の対象をどうにかしようとしがちだけど、
そうすると、どうなるでしょうか?

主観的に嫌だと感じる度合いが一層強まるばかりで、
ますます自業自得のパターンが強化されます。

そうではなくて、自分の内側から生じる心の反応パターンなのだから、
「なぜ自分はこの人を嫌と感じるのか?」と内省を深める方向に、
目線を180度向け変えれば、自業自得の報いを金輪際、受けにくくなる。

それが1回成功するたび、その1回分、着実に、確実に、
心の反応パターンは組み換わって、やがて、「完全に嫌がらずに済む」ようになる。
これが、「客観的事実」に基づく具体的な苦しみをなくす方法の一例です。


それからこのようにお伝えしている内容につきまして、
これもよくウェブサイト上では申し上げていますが、
「吉田さんのご意見」ではありませんよ。

「地球は丸い」というのと同じ「客観的事実」です。
「地球が丸いのは俺サマの意見だ!」とは、誰も言わないでしょう?(笑)。

「テニスの上達法」も、
私の意見や、オリジナル、独自メソッドなどではなく、
単なる「客観的事実」です。
それに基づいているから、結果的に上手くいきます。

 

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